昨日は憲法記念日でした。
例のウイルスのおかげであんまり改憲だの護憲だのの議論が盛り上がってないようでしたが、安倍総理大臣は2017年の憲法記念日に次のように述べ、2020年までの改憲を目指していたようでした。
「私はかねがね、半世紀ぶりに夏期の五輪・パラリンピックが開催される2020年を、未来を見据えながら日本が新しく生まれ変わる大きなきっかけにすべきだと申し上げてきました、かつて、1964年の東京五輪を目指して、日本は大きく生まれ変わりました、その際に得た自信が、その後、先進国へと急成長を遂げる原動力となりました。
2020年もまた、日本人共通の大きな目標となっています。新しく生まれ変わった日本が、しっかりと動き出す年、2020年を新しい憲法が施行される年にしたいと強く願っています。私は、こうした形で国の未来を切りひらいていきたいと考えています。」
しかし、オリンピックも延期され、改憲を具体的に検討することも先送りされる雰囲気が強いです。
安倍さんは、今年の憲法記念日に緊急事態条項がどうのこうのと述べていたようですが、まあすぐには実現しないでしょう。
というか、少なからぬ国民が改憲・護憲をワーワー言うことに食傷気味になっている気もします。
少なくとも私はあまり好きじゃなくて、その理由は、すぐに改憲派・護憲派の罵り合いになるのが見るに耐えないと思っているからです。
なぜそうなるのかというと、原因の一つとして、議論をするときに立場の対立点をお互いに探ろうとしないからではないでしょうか。
最も鋭く対立していると思われる9条の議論でも、ひとつひとつ紐解いていけば冷静に議論できるはずなのに、お互いが「平和ボケ」だの「戦争をする国にするな」だのレッテル貼りをしあって平行線で終わりがちな気がします。
毎度毎度時間の無駄の印象が強いです。
私が思うに、自衛隊が既にあるのになぜ?という<必要性>に対する率直な疑問をひとまず横におくと、9条については改正に賛成するほうが<理屈>としては通りやすいでしょう。
現在の国際社会で独立を保つために軍隊無しでやっていくというのはなかなか困難であろう、というのが比較的多数の日本国民の素朴な感覚と思われるからです。
(そもそもこの点について意見が対立するかもしれませんが、本稿では割愛します。)
しかしながら、何よりも重要なことは日本の憲法はそういう条文を含む憲法であるということです。
「現実」に対応するために、いろいろ屁理屈をつけて今までしのいできたわけです。
本来は「現実」が日本に軍隊を持つことを求めた後可能な限り早い時期に改正をすべきだったといえるでしょう。
現行憲法の審議過程での政府の説明は次のようなものだったからです。
この説明に基づき旧憲法が改正されて帝国議会で議決され現憲法になっているからです。
「戦争放棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定しておりませぬが、第9条第2項において一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、また交戦権も放棄したものであります」(1946年6月26日衆議院本会議における吉田茂総理の答弁)
「侵略戦争を否認する思想を憲法に法制化した前例は絶無ではありませぬ。例えば1791年の『フランス』憲法、1891年の『ブラジル』憲法の如きであります。しかし我が新憲法の如く全面的に軍備を撤去し、総ての戦争を否認することを規定した憲法は、恐らく世界に於て之を嚆矢とするでありましょう」(1946年8月24日衆議院本会議における芦田均帝国憲法改正小委員会委員長の答弁。なお、いわゆる芦田修正の議論は今なお政府見解でさえ採用していないため割愛します。)
ところが、政府の答弁は時を経るごとに変遷し、ついに1954年に防衛二法(防衛庁設置法・自衛隊法)が成立する前後には次のような今につながる答弁がなされています。
「戦力に至らざる軍隊といいますか、力を持つ、自衛軍を持つということは、国として当然のことであると考えます」(1954年5月6日衆議院内閣委員会における吉田茂総理の答弁)
「憲法第9条は、独立国としてわが国が自衛権をもつことを認めている。従って、自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは何ら憲法に違反するものではない」(1954年12月22日衆議院予算委員会における大村防衛庁長官(鳩山一郎内閣)の答弁)
大村長官の答弁の言い回しが微妙に変化しつつ、「必要最小限度の範囲」うんぬんという現在の政府見解につながっています。
引用が長くなりましたが、このような政府の答弁変更をどのように捉えるか、がひとつの大きな対立点として認識されるべきと思う次第です。
つまり、最高法規たる憲法の中身がこのような形で変更されてきたことをどのように考えるのか、ということです。
これは日本における法の支配のあり方の理解に直結しますし、それぞれの国民の<法に基づく国家システムへの考え方>にも大きく影響されるでしょう。
過去の政府答弁の変更についての捉え方の立場と9条の改正への賛成・反対は論理必然の関係にはありません。
しかし、少なくとも<現行憲法制定の議決の前提となった議会への説明>と異なる解釈が長い年月まかり通ってきたわけです。
実質的に政府によって憲法改正がなされてきたとも言えるでしょう。
このことを正面から認めたうえで国際社会の「現実」との関係でどのように整理するのか、が問われなければいけないのではないかということです。
今現在、個人的には成文憲法としての日本国憲法の最高法規性はできるだけ尊重されるべきである一方で「現実」との妥協をはかる観点から、<9条改正を単なる現状追認にしないために9条改正のひとつの条件として過去の政府見解の変遷への総括が改めて必要であろう>という整理をしています。
議会への説明と相違する許されざる解釈改憲だ!ということで当初の政府見解に立ち返るべきだということも論理的には成り立つでしょう。
そうだとすると「現実」との齟齬をどのように解決するかということが次に問題になるでしょう。
必ずしも容易なことではありませんが、こうやってひとつずつ地に足を付けて対立点をさかのぼっていけば、9条のように大きく立場が違いそうな論点も有益な議論が出来ますし、人格攻撃を伴う空中戦をやるよりはお互いの立場の長所と短所が明らかになってゆくのではないでしょうか。